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飛車角の一日(初心者)

船の案内 写真 艇長メッセージ

飛車角の歴史は、名和幸夫のヨット履歴そのものである。

名和幸夫は、1 9 6 3 年故関根久が始めたクルーザー教室の第一期生として参加、外洋ヨットの操船、航海術のすべてを学び、教室終了直後全長7.5 メートルの外洋ヨット「飛車角」のオーナーとなった。
こ の艇はヨット専門誌「舵」に恩師関根により紹介され、全国の外洋ヨット愛好家に広く知られることとなった。

雑誌「舵」

「 飛車角」はこの時代の外洋ヨットの標準的な大きさの艇で、設計は当時時化に強い頑丈なヨットを設計し、自らも同じ大きさの「どんがめ」の船主渡辺修治の描いた最新のデザインだった。渡辺との交友はこのとき以来生涯続いたのである。
名 和はこの艇に毎週のように乗り、相模湾、伊豆半島、伊豆七島に航跡を残した。
当 時「飛車角」に集まった2 0 代の若者たちの多くは、以後4 0 年、生涯にわたり兄のように、父のように名和を慕い続けた。
1 9 6 6 年、名和は次艇「飛車角? 」3 6 フィートを渡辺の設計で、前艇と同じ「加藤ボート工業」で建造させた。この艇はオールチークの豪華艇で、渡辺の思想が存分に盛り込まれ、華美なところが一切なく、質実剛健、硬派の典型のようなヨットで全国の外洋ヨット乗りの垂涎の的であった。


この艇が専門誌に掲載されたとき、名和は外洋レースのプロモーターと紹介されたのである。これは異例のことで、通常ヨットのオーナーは船主と艇長を兼ねるのであるが、名和は比較的短いヨット歴を自覚し、経験深い艇長を採用し、自らは一クルーとして乗艇したのである。
ここで艇長に就任したのが周東英郷である。周東は慶応大学の出身で、学生時代からの長いヨット経験のあるベテランであった。名和は自分より若年の周東に「飛車角」の運営、運行を任せた。

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名和は人に好かれ、経営者としての見識も買われ、ヨット界に登場した直後から、上に立つことを求められた。所属する小網代フリートではすぐにキャプテンに推挙され、また全国組織の日本外洋帆走協会ではわずか4 年後には平理事を通り超して常務理事に推挙された。

以 後協会運営の中心として大儀見薫とともに力を発揮する。10 年間理事を務め、に財務担当理事として完全な財務を推進しとし協会を支えたのである。
この時代の外洋ヨット界は日本経済の発展期に重なり、組織も拡大し、目覚しい発展を遂げたが、外洋ヨットが派手になるに従い、このスポーツの本来のあり方に矛盾するような「危険な」方向に進む気配も顕在化してきた。
それを確固たる理論構築で本来の進み方を維持し続けたのは大儀見薫であった。大儀見は名和を最も重要な信頼できる同志として車の両輪のように組織を支えた。二人は議論を重ね、更に思想を高め、組織全体にそれを反映させた。
その間も財務担当理事として、芦田等( 故人) 、森輝夫、白崎謙太郎を財務委員にし、決算期には連夜深夜にまで及ぶ作業を精力的にこなしたのである。

名和は協会運営から民主的な大衆団体の組織運営、組織と人間論を学んだ。

1979 年理事職を辞し、一外洋ヨットマンとして過ごすこととなる。
し かしこのころから本業も多忙になり、「飛車角? 」に乗る機会もめっきり少なくなった。

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その後「飛車角? 」は以前クルーだった医師の鈴木浩之の手に移り今も建造当時のチークのニス塗りの美しい姿を保っている。
次 の「飛車角」はやや小さい3 1 フィートのプロダクションボートに変わった。
これを機会に長年「飛車角? 」の艇長を務め多くの人材を育てた周藤英郷は艇を降りた。

「 飛車角」は再び艇を変え、今は3 8 フィートのプロダクションボー トになり、40 年来の弟子だった三浦征幸を中心に、名和秀行が跡を 継いでいる。

名和幸夫にとってヨットは単なる趣味をはるかに超える意味をもっていた。
外洋ヨットから人生に必要な多くのことを学び、また組織に深くかかわることで自らの思想を高め、後進に多くの影響を与え外洋
ヨットの世界を発展させたのである。

(文)2007.12.04 小網代ヨットクラブ  ナジャ船主 白崎謙太郎さんより寄稿

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